長崎で
シーボルトに師事したとされてきたが、最近では長崎遊学、シーボルト門下とする典拠はないとされる。江戸で蘭医
吉田長淑・馬場佐十郎に蘭学を学ぶ。コンスブルフの内科書を和訳して「泰西内科集成」を上梓。天保3年(
1832年)、
和泉国岸和田藩医となり、のち幕府の天文方阿蘭陀書籍和解御用、すなわち翻訳係となる。このころ
渡辺崋山・
高野長英と親交をもち、
尚歯会に参加、歴史や地理を講じる。
蛮社の獄の際、崋山・長英の入牢を聞き、自害する。崋山に「耶蘇伝」を口訳したことなどから連坐を恐れたものとされるが、三英には特に処罰される必然性はなく、自害は早計だったのではないか、とする意見もある。