文久元年(
1861年)より、
西洋医学所の取締役を務めた。同年12月16日には蘭方医としては初めて法印(将軍の御匙=侍医長に与えられる僧位)に進み、長春院と号し名実ともに蘭方医の頂点に立った。のちの
緒方洪庵の江戸招聘も玄朴らの推挽によるところが大きい。文久3年(
1863年)1月25日、
松本良順の弾劾により失脚、小普請入り。
元治元年(
1864年)10月28日、小普請医師より寄合医師に昇格、いくぶん地位を回復するが、以後
奥医師に返り咲くことはなかった。養子の
伊東方成は、幕末期に
林研海とともにオランダで医学を修め、
明治天皇の侍医を勤めた。